Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンと預言理解(2)

以前 2) ブラザレン前史~ヨーロッパおよび大英帝国を中心として(3) 政治史的側面 でお示しした通り、ブラザレン運動が生み出したDispensation神学というか預言に関する聖書理解は、1800年前後の政治的混乱、社会不安、人口の流動化を背景にしていることはすでに説明したとおりである。

本日は、Coad(1969)のA History of the Brethren Movementを参考にしながら、その成立前後の動きを追ってみたい。

終末預言に関する研究大会

そして、決定的なのは、1833年9月に開催されたPowerscourt conference(パワーズコート預言研究大会)である。この研究会には、後に他の参加者も紹介するが、Geroge Muller、Craik J.N.Darby、Croninらブラザレンの指導者格の人物がほぼ全員参加しており、そこでは、預言に関する学び会というか宿泊研修会が行われたのである。

類似の研究は、フランスやブリテン島周辺でも、1800年という世紀の終わりの年がやってくるということで、ヨーロッパの各地でかなりの騒ぎがあった。丁度、2000年問題で、騒ぎがあったこと(あの時は、昔のCOBOLプログラミングとかで年号が二ケタにしていることにより予想外のバグが出るのではないか)を思い出した。1990年代にOSやら技術やらが入れ替わった時についでに大概次第に入れ替えているので、問題が起きるということは実際に考えにくいのだが、マスコミが騒いでいるのを見て、学生のプログラムと同列にしよって・・・、といいたくはなった記憶が個人的にはある。

各地で開催された預言研究集会とその波紋

この時期、このような預言理解の研究をした人々がいて、Coad(1969)によれば、この種の預言研究の研究集会が数多くあったことが指摘されており、1826年から1830年にサリー州アルべリーAlbury Surryで、

Irvingの普遍的使徒教会(五役者運動で知られる)に影響を受けた銀行家のHenry Drummondにより研究大会の様なものが開催された。実は、このDrummondによる研究大会等にかかわるなかで、非国教会の分離派の教会で説教をおこなったことで、オックスフォード大学にいたHenry Bellenden Buteelは、当時の既存権威であった国教会に反旗を翻したとみられ、非国教会派の教会で説教をしたことを理由に、国教会の司祭の資格をはく奪される。それに伴い、Buteelはオックスフォード大学を去り(有体に言えば追い出され)、プリマスに居を移すことになる。

Edward Irving

その意味で、J.N.Darbyらも影響を受けることになる預言理解のかかわりで、集会にIrving派の影響をもたらすのは、実はこのButeel氏である。この国教会による司祭の資格はく奪時に、Newtonや当時オックスフォード大学にいたJ.N.DarbyはButeelを支援したものの、結果的にこのことで、国教会からの彼らの分離は確実なものとなる。

パワーズコート 終末預言研究大会開催

このような終末に関する研究機運が高い英国の環境の中、1831-1833年にパワーズコート子爵邸で開催された終末預言に関する研究大会である。このパワズコート邸での預言理解に関する研究会を取り仕切ったのは、Lady Powerscourt と呼ばれるパワーズコート子爵夫人であった。この大会を主催したパワーズコート子爵夫人は、割と若くしてなくなった、パワーズコート子爵5世の夫人であり、パワーズコート子爵6世(パワーズコート子爵夫人にとっては、義理の息子)の後見人的役割をしていた時期に、貴族の趣味としてのサロン運営の一種として預言理解に関する研究会のホステス(主催者)をしたようである。なお、パワーズコート6世が実質的に差配する能力をもちはじめる1833年以降は、1836年に同パワースコート子爵6世夫人は逝去するまでの3年間、ダブリンで同様の研究集会を開催している。かなりの多くの人たちが、この様な終末預言研究の研究会にオックスフォード運動関係者を含め、若い新進気鋭の研究者が集まったことが知られている。

ヨーロッパ的な文化サロンと貴族

ところで、ヨーロッパの宮廷、貴族関係者の中では、こういう文化的なホストやホステス、あるいはパトロンをすることが一種の習慣であり、貴族制が崩壊するまでの19世紀は、こういう文化サロン的な活動が行われた。このようなサロンで、室内楽が発展したり、哲学サークルや詩作のサークル等がヨーロッパのあちこちにみられ、食いっぱぐれそうな哲学者や音楽家、画家たちが生活のよすがにしていた部分はあろう。


室内楽の例(モーツアルトのデベロプメント)

なお、天皇家並びに皇族と呼ばれる人々が何らかの学術に携わる伝統(昭和天皇のヒドロ虫研究や粘菌研究、三笠宮崇仁の古代オリエント史研究、今上天皇明仁のハゼの研究は著名であるし、皇太子徳仁はオクスフォード大留学中に中世運河研究をしていたことは、今は物故者になった大学院時代の指導教員の一人の教官からお聞きしたことがある)があるのは、西洋の貴族社会の文化的貢献の一種の反映があるものと思われる。まぁ、だからこそ、冷泉家に和歌研究の蓄積があるのだが。

パワーズコート邸での預言研究大会の影響

このパワーズコート終末預言研究大会でJ.N.Darbyは非常に大きな役割を果たし、極めて熱心に預言の期待を語りディスカッションを行ったことが知られている。また、この時の経験が、実は後の集会の権威性をめぐる問題の発端の一つでもあり、この時以降、プリマスの信徒との同志的感情を抱くことになったと思われる。1933年の参加者が非常に興味深い。プリマスからは、ダービー、べレット、ニュートン、ホールが参加し、ブリストルからはクレイクとジョージ・ミューラーが参加し、ヘンリー・ソルトウ、ハリス、エドワード・デニー、リンド、ウィグラムらが参加している。

この参加者に見られるように、集会の初期指導者たちは、ほとんど庶民ではなく、当時珍しい大学卒、医師、弁護士、貴族、学者など、当時の比較的日庶民層の人々、とりわけ、英国がその先祖と地とするどちらかといえばアイルランド支配層の人々が中心であった。

なお、この時の大会時期に、未亡人となっていたパワーズコート子爵夫人との結婚を考えたようであるが、結局破談になっている。以下は、完全に余談であるが、こういうことは案外重要であると考える。しかし、もし、J.N.Darbyが結婚できていたとすれば(配偶者がパワーズコート子爵夫人であるかどうかは別として)、あそこまで奇矯な行動をする人物になったかどうかというのは、少し考える余地があるかもしれないが、こういう想像は歴史家には夢物語のお遊びではある。

こういうお遊びは別にしておいて、何がこのパワーズコート預言研究大会で生まれたかといえば、既存の英国国教会に親和性をもつグループと、ブラザレンの理想に共鳴するグループの明白な分離である。そして、既存のキリスト教会は、ダービーの預言理解(終末が近いとする理解)と相俟って、国教会及び既存の教会への批判を強めていくことになる。現代まで、他のキリスト教会への批判的視座は、このダービーの視点に大きく依拠しているものと思われる。また、この批判的な態度は、DarbyがいたプリマスのNewtonにおいてさらに先鋭化されており、そこに先に触れたButeelの経験が投影されているようにも思われる。

 

パワーズコート邸(現在はホテルとなっている)

クレイクとミューラーの預言に対する態度

この時期、ブリストルにいたクレイクとミューラーは実際に救貧活動や教会の急成長に伴う諸般の対応に追われており、このような純粋な神学的理解にかかわっている余裕がなかった模様である。その結果、ダービーの論争や誤解のもとになりやすいあいまいな議論に関する様な事には関係しておらず、その様なあいまいなことにかかわってはいない。

そして、この預言理解に関する態度の差、温度差が、後のクレイクやミューラー等のブリストルのグループを中心とする人々とダービー、ニュートンらを中心とするプリマスのグループの人々との間の分裂の補助線というか序章となっている。

ではなぜ、ミューラーがパワーズコート邸での預言研究大会に行ったのだろうか。その背景には、シオニズムの影響があるものと思われる。シオニズムは、終末預言、とりわけ、シオンに集められるという預言理解と密接に結びついているのであろう。

元々、ミューラーは、ユダヤ人へのキリスト教伝道の活動をしていた人物であり、シオニズムと終末の関係に関心がまだ残っていたのではないか、と思う。

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