Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンと預言理解(3)

これまでの2回でプリマス・ブラザレンの預言理解の成立の史的展開について触れた。その中で、Irvingの聖書理解との1830年代初頭での出会いと、それへの激しいJ.N.Darbyの傾倒があり、一般のキリスト者が受け入れ難い激しさを含んでおり、それを根拠として、Darby派を受け入れられないとする国教会(聖公会)との分離が生まれた。さらに他のことで忙しかったとはいえそれに対してやや距離を取ったCraik(クレイク)とGeorge MullerたちBristolグループとの間に亀裂が入ったといえよう。

預言理解の背景としての字義通り解釈

当時このような預言理解を研究することは割と一般に行われていており、一部には、オックスフォード運動の関係者もこのような非伝統的な黙示録理解である預言理解に進んでいった。伝統的な黙示録理解とは、黙示録に書かれた内容は、象徴的な理解であり、象徴的に受け止めるというものである。

しかし、Darby及びIrvingらの主張、特に、Plymouthグループの人たちの主張は、聖書を文字通り理解するというやや教条主義的な字義通り解釈法と呼ばれる解釈法である。

黙示録 口語訳
5:1 わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。

例えば、上の黙示録に出てくる以下の文章は、巻物は一つの巻物であり、巻物の7つの封印は文字通り7つの封印がその巻物を封印している、と理解されている。しかし、その次の章の冒頭は、文字通り理解されず、象徴的に理解される。

黙示録 口語訳
6:1 小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。

では、文字通りの小羊ではなく、文字通りといいつつ、聖書理解の鉄則に従って、小羊(the Lamb)は象徴的に復活したイエスキリストとして理解される。つまり、文字通りといいつつ、ある部分は象徴的に理解されているのである。あるいは

黙示録 口語訳
11:9 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。

という部分では、3日半が3年半になったり、35年になったりと、単位系の切り替えが恣意的に行われ、文字通りの日理解ではないにもかかわらず、文字通りの理解であるという主張がされることがある。個人的にはこれで文字通りの、字義どおりの解釈と言われて非常に困惑せざるを得ない。

英語版の聖書には、小羊をThe Lambと大文字で書かれていてそれが象徴であることを表している、という人がおられるかもしれないが、そもそも、ギリシア語写本は以下の画像に示すように文字間の切れ目なく、おまけに大文字で書かれているものである。これが読める人はすごいと思う。元々のギリシア語写本に小文字はそもそもないのであり、先頭文字が神を示す大文字で始まっているからという根拠は、英訳聖書おそらく欽定訳聖書の翻訳時の解釈をそのまま受け入れているに過ぎない。

N.T.ライトがふれている文字通りの解釈から考える

この辺りのことに関して、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の第14章の中で、次のように記されている。

 おおざっぱに言えば、この設問(引用者註 聖書を比喩的にとるべきか、文字どおりに解すべきか)は役に立たない。この古ぼけた区分、「文字どおり」と「比喩的」という用語をいくらかでも役立てたいのなら、はじめにそれらの意味をはっきりさせた方がよい。
皮肉なことにその意味からすると、「文字どおり」と「文字どおりに」という言葉は、あてにならない様々な使われ方をしている。「文字どおりに」というのが、実際には「比喩的」な意味であることが割とある。(『クリスチャンであるとは』 p.271)

上の例等は、まさに、文字どおりの字義的解釈といいながら、3日半が、3年半になったり、35年になったりと、結構忙しい。

 実際これまでにであった、聖書に親しんでいるだれもが、背景や文化はなんであれ、少なくとも聖書のある個所では文字通りを意味し、他の個所では比喩的意味であるのは直感的に分かっている。旧約聖書で、バビロニア人がエルサレムを包囲し、焼き落としたというのは、文字通りエルサレムを包囲し、焼き落としたという意味である。

パウロが3回難船したと書いてあれば、実際に三回難船したのだ。同様に、盗人が夜来る、妊婦に生みの苦しみが望む、また眠らず、酔うこともなく、目を覚まし、慎み深くしていなさいというとき(第1テサロニケ5:1~8)、よほど理解力のない読者でない限り、パウロの言った明白な比喩の使い方に気づかない人はいないだろう。(中略)
他の明らかな例として、イエスのたとえ話がある。放蕩息子の物語は実際に起こったことであって、もし1世紀当時のパレスチナの農家をいくつか尋ねれば、老いた父と和解した二人の息子に必ず出会うはずだと思う読者にあったためしはない。(中略)イエス自身も、時には「文字どおり」の意味を示して、この点を強調している(聴衆たちが間違ってとらえると思ってそうしたのではない)。時には福音書記者も同じことをする。マルコは、祭司らが自分たちをたとえていると気づいたと記している(マルコ12:12)  (同書 pp.272-273)

とお書きである。さらに次のようにN.T.ライトは書き記す。

 もう一つの問題(それは際限ない混乱のもととなるが)が、この点から出てくる。先ほど見た「文字どおり」の一般的な使い方に加え、今日「文字どおり」と「比喩的」ということを、現代人は二つの異なる種類のものを指して使っているからである。一方は、その用語の本来の意味のとおり、言葉がその物事を指し示す仕方で使っている。(同書 pp.273-274)

しかしもう一方、「文字どおり」と「比喩的」は、私たちがいま言及している事柄にかかわることをも意味するようにもなった。「文字どおりよみがえったのか、それとも比喩的によみがえったのか」といういい方をする。(同書 p.274)

N.T.ライトはこうも言う。

 2番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者のだれもが、ある特定の文章について、どの部分が「文字どおりの意味」の具体的現実であるかを問う前に、どの部分が「文字どおりの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味をもっているかを調べる自由がある、ということである。ということは、前もって、「聖書の全てを文字どおりに捉えるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的にとらえるべきだ」とするような単純な決めつけは出来ない、ということである。(同書 p.276)

と書いた後、ダニエル書の「人の子」についての預言理解の詳細を触れている。詳細はぜひ、同書を直接ご参照いただきたい。

字義通りといいながら象徴的解釈になる背景

オックスフォード運動の関係者にしても、J.N.Darbyにしても、字義どおりの解釈といいながら、結果的には自分たちの預言に関する想定に合わせるために、結果的に、象徴的解釈をせざるを得なくなり、その結果、字義通りといいながら象徴的解釈をする字義的にはまさに矛盾した解釈法をとることとなっているのである。実に残念なことではあるが。

このような字義的といいながら象徴的でもあった解釈は、黙示録の以下の様な箇所がEUであるとして語られた記憶がある。

口語訳聖書 黙示録
12:3 また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。

まぁ、済んだ話なので、どうでもいいのだが、この赤い竜の10の角は、EU加盟国であるというような冗談の様な話が、まことしやかにキリスト集会(特に西日本方面)の人々の間で語られたことがあったが、今、EU加盟国って40をはるかに超えてないないだろうか?あるいは、以下の黙示録9章の表現から、

口語訳聖書 黙示録
9:7 これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、
9:8 また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
9:9 また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。

これらのイナゴという表現は、米軍のアパッチヘリではないか、と想像した人々も過去にいた模様である。現在もおられるかもしれないが、その方々には、ここで、言及できなかったことをお詫びしておく。なお、私の友人氏のお話によれば、それは、ソ連製のミグヘリコプターだという説もあった模様である。

ボーイング社のアパッチヘリ


ボーイング社のアパッチヘリ

Ka‐52 ホーカム

Mi-24 ハインド

消費される終末と黙示録

ところで、終末における社会の崩壊のことさす形容詞としてApocalypticという語がつかわれるのであるが、そのApocalypticという語は、象徴的に書かれた黙示録(これに対応するギリシア語は、 ἀποκάλυψιςであり、Apoは外す、kaluptoは覆いという意味であり、覆いを神がとりのけたものをみる)に由来する語である。そもそも、ἀποκάλυψιςでもある黙示録は、神が覆いを取り除いてくださった範囲で、象徴的に読むのが良いようである。無理やり自分たちで、覆いをとりのけたつもりになった気になったりせずに。

より具体的には、以下の絵のようなことをApocalyptic Imageというのだが、これは黙示録のギリシア語原本によらない聖書理解に影響されてのことであろうと思うが、まぁ、ここまではいくらなんでも、J.N.Darbyも、そんなことが後世に起きるとは思っていなかったのではあるまいか。そして、日本では明日から公開されるLeft Behindという映画までつくられるとはまさか予想はしていなかったであろう。まさに、黙示録を現代社会において消費すると、あのLeft Behindのような映画になったりするのではないだろうか。

アメリカのApocalyptic Artに描かれた米国国会議事堂

レフトビハンド、予告編

ちなみに、レフト・ビハインドの英語圏の評価は、元々、ビリー・グラハム先輩が設立メンバーの一人で、編集長をお勤めであったChristianity Today(いま日本でネット展開している、クリスチャントゥデイとは完全に別物、縁もゆかりもない)では、4点満点中0.5点、『キリスト教映画でないし、かすりもしてない』という評価がついている映画であることもお伝えしておく。証拠はこちら。
http://www.christianitytoday.com/ct/2014/october-web-only/left-behind.html
LeftBehind

次回、DarbyとIrvingによるかなり無理をして挿入された預言理解の問題について、Coad(1968) A History of Brethren Movementから少し拾ってみたい。

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