Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンと預言理解(4)

これまでの2回でプリマス・ブラザレンの預言理解の成立の史的展開と前回は、字義通りの解釈がもたらす課題について触れた。

艱難前再臨説が生み出したもの

また、預言理解に関して、Irving(アービン)とJ.N.Darby(ダービー)は、再臨は2段階で起きると主張し、第1は、キリストの”顕現(presence)”で、この段階で真実の信者と教会のみが携挙(”Rapture”)されるとした。キリストの支配は第2段階の終わりをもたらし、、キリストの栄光が公的に示される(Appearing)ことである、艱難が発生する前にキリスト者が空中携挙されるという理解が生まれることになる。そして、この理解こそ、初期プリマス・ブラザレン派の中で大きな役割を果たしたB.W.Newton(ニュートン)とこれまた大きな影響を与えたJ.N.ダービーの両者の間に大きな亀裂を明確化されることになる。そればかりか、この違いが、後のDarby派がBristol(ブリストル)グループのGeorge Muller(ジョージ・ミュラー)やニュートンとの間に亀裂を生み、直接は詩篇の解釈を口実にしたキリストの人間性に関する問題として出発するが両者が分裂することになり、後の聖書理解におけるねじれを生み出すのである。

ニュートン(ブリストル系)とダービー(プリマス系)の分裂の出発点

さらに、この分裂は、プリマス・ブラザレン派にのみにみられるような一時参加者にまで対する紹介状制度の出発へとつながるという極めて大きな特徴を形成する過程に影響を与えているのである。そして、挙句の果てに、ニュートンは、プリマス・ブラザレン派から身を引き(恐らく嫌気がさしたのであろう)、単立教会を設立し、そして、そこから複数の派生教会が生まれる。ダービー派からは、偽教師や悪を行うものというラベル張りがされるが、ある人々からは、19世紀英国における、カルヴァンと呼ばれる。


Benjamin Willis Newton

John_Calvin_by_Holbein
ホルバイン画カルヴァン

2段階再臨説とガラテヤ書 Newtonによる批判

この2段階再臨説の問題とは何か、であるが、もし、この教会が反キリストによる迫害前に取り去られてしまうとすると、反キリストによって迫害される神に忠実なものとは誰なのか問題が生じるし、それは教会外の人々になる。これに対して、ニュートンは教会でないとすれば、教会以外の他の人々を想定せねばならず、教会が神に憐れまれた人々という概念を持つ以上、キリスト以外によって憐れみを受けた人々があることになり、伝統的な救済論、救拯論の枠組みの核心部分に直接問題を生み出すことになり、福音理解に大きな影響を与えるのではないか、そして、ガラテヤ書においてパウロが主張した他の福音があるのか問題に抵触する可能性がある、とDarbyの持っていた2段階再臨説に対して異論を申し立てた。恐らくニュートンが行ったのは、この部分の表現だろうと思われる。

【口語訳聖書】ガラテヤ人への手紙
1:6 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。
1:7 それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。
1:8 しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである。
1:9 わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである。
1:10 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
1:11 兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。

2:14 彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。
2:15 わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、
2:16 人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。
2:17 しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。
2:18 もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。

この問題を回避するために、ダービーは、この反キリスト時期にいる神に忠実なものとは、ユダヤ人で神に忠実な人たちであると想定し、したがって、ユダヤ人の原型であるダビデ家計の復興と、神殿を中心としたダビデの王権の復興を考えるようになる。そして、1000年王国は、ユダヤ人による千年王国で、その時期には、”恵みの時代”つまり、新約時代以降の信徒は天においての支配とかかわるものであり、この地上のものとかかわらなくなるという、千年王国二王国論的な天と地を分離して考えることになるのである。実は、地を軽く見る背景は、この2元論的世界観を唱えることになるのである。

ヒュートンにとっては、これはキリスト教の基本教理(ガラテヤ書やローマ書、中でも、とりわけローマ書1章から3章)に書かれたキリストにおける和解の教理)を大きく損なうものであると理解していたようである。そして、伝統的な理解に反するものとも。ダービーの議論に従う人々が、ユダヤ的希望とキリスト教的希望を分け、新旧約を分けて考えるようになり、そして、その理解を補強するために数多くの推論を付与していくときに、完全に出来上がった異教になっているのではないかということを想った模様である。Coad(1968) A History of Brethren Movementには、このことに関してNewton concluded that he was faced with a full-blown heresy. (p.130)と記述している。

後の分裂の出発点としての預言理解

実は、このような対立は、1834年のPowerscourts(パワースコーツ)預言カンファレンスでダービーと衝突し、1837年には、この対立は、インドにいたGroves(グローブス)にも伝わることになる。そして、これらは、Christian Witness誌上で、論文を介した討論の形で継続される。、

しかし、この再臨が艱難前であるのか、艱難後であるのかという議論は聖書の理解の体系と密接に結びつきかねない。そのため、未だに論争の焦点になりやすいが、ただ、この結末がどちらかをライブで見て確認する前にニュートンも、ダービーも物故者になっているので、彼らは自分たち自身で、その結末を見ることはなかった。

その日はイエスも知らない、とおっしゃっておられるので、我等は、それをごくわずかな社会変動の情報を手がかりに、あまりに大胆な仮説を構想し、神の主権の過剰に思い込みを以て考え、それをはかり知ることができると思うことは控えるべきではないかと思う。

次回、プリマス(ダービー)派とブリストル(ミューラー・クレイク)派の分裂に至る過程に触れたい。

 

 

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