Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂への序曲(1)

プリマス・ブラザレンと呼ばれる集団が、Independent Brethren(Open Brethren)と呼ばれるブリストル派とConnexial Brethren(Closed Brethren あるいは Exclusive Brethren)と呼ばれるプリマス派に二分されて行くが、その出発点が、ダービーの預言理解での隠れた秘密の携挙概念に由来していることは既にふれた。

ニュートンという人物について

どうも、Newtonという人物は、厳格で独裁的にプリマスにおけるエブリントン通りの集会を支配していたようである。その側面はあまり触れられることはないが、実際にあったようである。しかし、この時期700人以上の人々がこの教会に集まっていたのである。このなかで、説教する能力と教える才能を持つ人がだれでも話せるようにした。しかしながら、これだけの人数で、Newtonの様な厳密な参加者への関与がなければ、混乱に至ることは明白であった。しかし、このような厳格さは、ダービーが強く反対したのである。

ダービーの教職制度への拒否反応とダービーによる混乱

この背景には、ダービーが1927年から35年かけて経験したことに由来している。この時期の経験から、ダービーが教職制度に激しく、また感情的に反対し、スイスでの経験はこれを確実なものとした。そして、ニュートンのこの厳密な関与の方針は、ダービーが教職制度を否定しようとしたにもかかわらず、教職主義的であるため、この種のダービーによる教職制度反対論からの議論を招くことになった。

なお、ダービーという人物は、語学に関して天才的な才能を示し、非常に多くの言語を扱ったことが知られているし、ヨーロッパ大陸各国を訪問し、伝道知ると同時に、新大陸などでも伝道旅行をしている。

ダービーは1927年のダブリンから、オックスフォード、パワースコーツ、そしてジェノバとローザンヌに至るまで、20年以上にわたって混乱の中心であり続けた。ダービーは反対を軽く容認するような人物ではなく、更に、事態が急展開する状況にあり、将に一触即発の状況を迎えていた。

論争的であったニュートン

ダービーは、ニュートンがダービーの聖書理解に対して注意喚起していることにいら立っていたが、思慮に満ちたクレイクのプリマス訪問でニュートンの暴走は防がれていた。クレイクは、ニュートンのけんかっ早さからは遠い人で、落ち着きがあり、明晰で学問的な態度をもった人物であり、穏健なカルヴァン派的な学問的な背景からもニュートンが唯一経緯を持ちつつ耳を傾ける人物であった。
この時期、表面上、プリマスは表面上は平和であったが、嵐の前の静けさであった。ダービーはNarrative of Facts(John Nelson Darby全集 Vol 20)の中でもそのことは認めている。

議論のすれ違い

このような背景の中、ダービーがニュートンの14歳年上のHarrisハリスに手紙を書いて、ニュートンにハリスが影響を与えてニュートンの行動を抑えようとしたのだが、ハリスは、丁寧ではありつつも、ニュートンに対するダービーの批判に反対したため、ダービーは、そのことをとらえ、自分の支持者がはぐらかしているのでは、と思い始めた。ハリスとの手紙の往復の中で、ハリスはプリマスに来ることを勧め、1845年3月にダービーがプリマスに到着するや否や、学び会を開催し、ニュートンの概念を攻撃して行った。ダービーに対して、ニュートンは冷たく対応し、共同の長老であるHarrisSoltau Battenの3名に、ダービーに対して決定的な介入をするように求めた。この結果HarrisとBattenがダービーに会い、ニュートンが敵対的でないことが伝わったと思い、そして、ニュートンはダービーに対して、ダービーの意思が敵対的である(antagonistic intentions)と思ってたことを詫びた。ニュートンのダービーへの批判点は聖書から明白に示される根拠があまり明確でない想定が多過ぎること、そして、strange system of dispensational doctrines(ディスペンセイション主義の奇妙なシステム)とよんだものであった。

ずらされた論点

この素朴な手紙が第2ラウンドに火を付け、長期にわたる内心の思いが噴出した感の返事を書き、敵対的(anatagpmostoc)とは何事かということで再び責め始める。ダービーの戦術は陰険で、これはニュートンの挑戦的態度に端を発するとは言え、教義上の違いの問題であることに気がついたであろうにもかかわらず、ニュートンの他の人々に対する行為を取り上げていき、ニュートンを孤立させる形を取ったのである。ニュートンの鋭い論理がダービーの主張する疑う余地のない教義的な弱点を攻撃されることをこのような形の問題のすり替えをすることで、ダービーは避けたのである。


James Lampen HARRIS

Henry William Soltau

神学上の議論を個人攻撃にすり替えることは、プリマスブラザレンだけではなく、多くのキリスト教会で行われてきたものではないか、と思われる。そして、混乱に拍車がかかった部分も多かったと思う。

1879年ごろのプリマスとダベンポート付近の地図

この混乱の続きは、次回公開予定

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

情報

投稿日: 2015年7月9日 投稿者: カテゴリー: ブラザレンの分裂 タグ: , , , ,

ナビゲーション

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。