Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂への序曲(2)

前回の記載で、Darbyが神学的問題を別の教会政治の問題にすり替え、ニュートンのけんかっ早さに付け込んで、狡猾な戦略をとり、ニュートンの教会を分裂させ、そしてニュートンの追い落としを図ったと見えることを述べた。

今回、その決着がどのようについてかについて触れていきたい。

1845年4月の公開査問会となった会談

その後、ニュートンとダービーの間で書簡が好感されていたのであるが、その後ニュートンが、ダービーと個人的に話したいといったにもかかわらず、1845年4月に公開法廷の様な形で、13人の男性の前でニュートンはダービーと対決することになった。明らかにこの環境はニュートンにとって不利益なもので、この中で、ニュートンは感情を爆発させたようである。ダービーによれば、ニュートンの主張しようとしたことは”that he did seek to make a focus of Plymouth,and that his object was to have union in testimony there against the other brethren( that is, as explained and is evident, their teaching), and hat he trusted to have at least Devonshire and Sommersetshire under his influence for the purpose; and tat is was not the first time that I had thwarted and spoil his plants.” であるとしており、おそらく当初からダービーはニュートンをつぶすつもりではなかったかと思われる。

教義問題から行為の問題へのすり替え

Coad(1978) p.142では、この時のダービーについて、次のように概略をまとめている。

この一連の騒ぎに於いて、ダービーは、非常に陰険な戦術を取り続けた。ダービーは意図的にニュートンがこだわっていた理由でもある教理的な違いそのものに意図的に光を当てることなく、これらを隅の問題のように寄せ集め、合理的なディスカッションを防止したのである。むしろ、ニュートンの教義的確信から得られたダービーの教義(ディスペンセイション主義的理解)はクリスチャンとしての基礎的な教義に壊滅的であるとした、ニュートンの行動そのものをダービーは中心に据える。

実は、これは非常に巧妙な手段であるといえよう。問題の本質をずらす(教義上の問題という論点の本質から教義に基づく個人の特定の行動という誰しもが容易に理解可能な形の論点の批判への問題のすり替えと、ニュートンがダービーを批判したという表面的な事実性の争いとすることへの論理のすり替え)事により、だれしもが議論に関与出来るかのような印象を形成し、そして、自分自身に有利な形で持っていくというやり方である。

ダービーの画策行為

Tim Grass(2006)のGathering to His Nameのp.74 の記述によると、1845年の夏の間、ダービーはDevonデボンとSummerset サマセットで巡回説教をし、そののち、ダービーは、すべての人に開かれた礼拝を妨げるかのような(ニュートンの)説教者の権威性に関する理解があったという多数の証拠が見つかったと主張している。そして、これはダービーが主張し、国教会から分離することになった聖職中心主義であると批判したのであった。そして、ニュートンの集会への関与はキリスト集会群における聖霊の働きの中心性の簒奪であると主張していた。そして、ニュートンが教役者(教える能力のある人)はどの集会でも語ってよい、としていたこともあり、このことからダービーは自由にさまざまな集会に出入りして、長老としての権威を行使するのではなく、プリマスの集会に長老として影響を与えたわけではないということに関しての口実を担保することができた。

1845年10月18日にプリマスに戻ったダービーは、もともと、ニュートンの盟友で、ニュートンより年長のハリスを巻き込んで、謙譲と祈り(humiliation and prayer)の会を開催し、当時ロンドンにいたニュートンをそこに呼び出そうとするが、これをニュートンは拒否する。これを受け、ダービーはプリマスの集会がキリスト集会群として満たすべき原則を崩壊させており、邪悪なことが判断もされず、告白もされず行われているとして、交わりからの離脱を宣言する。

1845年11月に公開の集まりが催された折、ダービーはニュートンとの交わりを絶った理由として、ニュートンが出版したLetter to Clulow と題した書物の中での1845年4月に行われた13人の前での公開訊問に近い形で起きた会談の記載に関して虚偽記載があること、Letter to Clulowの内容が公刊されたFive Lettersにおける内容から変更があることを問題の焦点であると主張したのである。

 

Letter to Mr Clulow の一部

公刊された書簡集

なお、このFive Lettersは公刊の前に手稿のような形で回覧されているが、その手稿段階での内容と公刊された時の内容は大きく異なって(とりわけ教会内における教役者の権威性の影響に関する部分の影響に関して)おり、そのうちの一部の公刊されたバージョンの中では、ニュートンの2つの手紙は軽く扱われており、あるものの中では、付録のかたちで収録されているものもある。こういう改変は著者の主張に合わせて変更してもよいとは思うのだが、これが、勝手に変えたと大きな問題となるあたりが、なんだか教条主義的なダービーという人の性質を示しているような気がしてならない。

この部分を見ながら、この記事の筆者はこの記述を最初読んだ時、手紙が公刊前に許可なく回覧されたりと、まるで新約聖書における書簡ではないか、という印象を持った。まぁ、ブラザレン運動が19世紀大英帝国治世における原始キリスト教界への回帰運動という一種の宗教改革的情熱に基づく運動であるから、というのは理解できなくないが、新約聖書の成立史ほどの厳密性を一応経たものではないものをそのまま勝手に回覧するブラザレンの人々の精神性というのはいかがかと思うが。

さらに、手紙の書籍ないしパンフレットのかたちで公刊がなされて、それが何バージョンかあるというのも、筆者にとって驚きであり、当時の人々の関心が極めて高かったことを印象がある。

個人的感想

歴史は起きてしまったことで仕方がないのであるが、もし、プリマスでダービーのディスペンセイション的な教義理解に関する理解の深まりと対話の深まりがあり、この説が受け入れられるのではなく、疑念を持って受け止められ、ニュートンの理解が受け止められ、これが19世紀英国で、そして、20世紀の米国と日本で広まっていたとすれば、ずいぶんと今のキリスト教会もその色合いが米国と日本で違っていたのではないか、とも思うが、出力の大きな放送局のようなダービーの事である。他国に行って、自分のディスペンセイション的教説を広めまくっていたに違いないと思うと、結果は、あまり変わらないのかもしれない、とも思う。

次回、分裂の始まる1845年12月の記述から始めたい。

 

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投稿日: 2015年7月30日 投稿者: カテゴリー: ブラザレンの分裂, ブラザレン史 タグ: , , , ,

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