Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂の本格化(1)

前回までで、プリマス・ブラザレン派が、ダービーとニュートンの論争(ダービーは、ニュートンの行為性という本筋でないところで議論し、ニュートンは預言理解の問題として議論することにこだわった)を出発点として分離したことに関して記述した。この記事以降、どのような発展を遂げたのかに関して、Tim Grass(2006)を参考に記載して行きたい。

分裂を決定づけた詩篇6篇を巡る講解

分裂への序幕としてのダービーとニュートンの対立にだれも手をつけられなくなって以降、1847年の早い段階で、ニュートンは詩篇6篇について、キリストの受苦を示すものとしてを聖書理解を陳べる。この時聖書理解に関するノートがプリマスから北東に40Kmほど行ったあたりのExeter地方で回覧される。この詩篇6篇の聖書研究は、Irving派の人々によるニュートンの論文への批判に対応しようとしたものがその原型をなしている。つまり、ニュートンがChristian Witnessに1835年に書いた論文に対し、Irving派の人々は、キリストの人間性の現実を正しく評価していないと批判したのであり、このような動きに関してニュートンは対応しようとしたものであった。


1840年代のデボンシャー

当時から、キリストの受苦の問題は、新しい問題ではなかったが、1836年の預言理解に関する大会(Conference)で、このキリストの受苦は文字どおりのユダヤ人のための受苦と霊的な残された人々(spiritual remnants)の両方のためであるかどうかに関する議論が議論の焦点と化した。尚、この議論を考える際に、ユダヤ人といった場合、ダービーの概念の中には、釈義上文字どおりのユダヤ人と霊的な存在としてのキリスト者という対立構造があったことを覚えておかねばならない。

尚、この詩篇6篇に関するニュートンの聖書メッセージの記録は、ニュートンのいとこのAmy Toulminによって記録されたものである。このToumlin嬢による記録は、ブラザレン派の指導者のひとりであったJ.L.Harrisの手に一旦J.L.Harris夫人の手を介して渡ることになる。J.L.Harris夫人からの依頼に応じて、Amy Toulminが貸し出したのであった。この結果、多くの人に広まってしまうことになるのである。このノートが後に大問題に発展する。


J.L.Harris

Coad(1976)による問題の出発点となったニュートンの理解の評価

この論文に関するCoad(1976)のp.148での評価を少し紹介したい。

ニュートンは、受肉の真理の考えを深める中で、教理として容認される限界を超えていたようにも思える。ニュートンが指摘しようとしたことは、キリストの受苦のいくばくかは、キリストの栄光に帰されるべきとしていたのである。なぜならば、人類全体と、イスラエルとがニュートンの中では同一視されていたからである。イエス御自身は、神の怒りのもとに御自身をおかれ、イスラエルに向けられた罰を受けられ、直接的には、自ら主体的にさばきに従われたばかりではなく、神との間の必要な結果でもあったともニュートンは考えていたようである。ニュートンは、キリストの罪が完全に存在しないことは強く主張していたとはいうものの、イエスが人間と同一になられたことを主体的になられるという神との関係の結果であるということにもなる。イエス御自身が従順に従われたという側面から、神の裁きにおいてイエスが責任を負うべきこの条件(引用者補足 人間としての条件)に関する問題が必然的に顕在化することとなった。キリストの人間性の問題という観点では、問題にはならないのではあるが、贖いの教理の関係において、いくつか危険な要素をはらんでいると当時の少なからぬ人々からは認識されたようである(引用者補足 イエスの人間性が強調されるとイエスの神性が軽視されかねない)。しかしながら、この考え方は、キリストに対して温かい思いをもつ人々に対して、一種攻撃的な側面をもつのである。後に、ジョージ・ミュラーは「これではキリストご自身に対する別の救い主が必要になる」とこの問題に関するまとめの印象を示したのである。

このCoadの評価に関して、まとめてみたい。キリストの受苦のいくばくかは、イエス御自身には、完全に罪はないにせよ、罪人のための身代わりとして経験されたのではなく、イスラエルの一員としてのイエスが罪人との関係の中に主体的に関わったことになってしまうという側面をもっているのである。キリストの神性を強調し、神であるキリストがわざわざこの地に下ってきたということを主張するばあい、あるいは、神による救済あるいは救拯を強調したい人々にとって、ニュートンの主張のような形でイエスの人間性が強調されてしまうと、その救済や救拯の意味が薄れてしまい、キリストがどのようなお方であるのかがはっきりしなくなるという問題を持つということであろう。

このあたり、壮年の学者(この時40歳)として自らの理解を明確に書き、そして、それを主張しようとする傾向が強いNewtonのある種の生真面目な性格が非常に悪く出た結果ではないかと思う。これに対し、Darby(この時47歳)は神秘主義的で理解が困難で、かなり一つの文章が長く意味が通らないことが多い(当時の英国人に対しても、その意味を明らかにする補助者が必要であったほどである)ことから、解釈にそもそも幅があるのである。ある面、明確に書こうとして行き過ぎてしまう傾向ともなりかねないNewtonのふりはある程度出発点の段階から予想されることではあったと言えよう。

ユダヤ人問題とヨーロッパ

この部分のCoad(1976)の引用やGrass(2006)での記述などを併せ見て思うことであるが、Coadは明確にそのことに触れてはいないが、当時ヨーロッパで焦点化していたユダヤ人問題とその救済の問題をどう考えるかの影が落ちている気がする。キリスト教の初期段階から、その理由は明確ではないが(名目的にはユダヤ人がメシア、すなわちキリストである、ナザレのイエスを殺すようにローマを仕向け、メシアとしての対応をせず、結果的に実質的に殺したということ)、ユダヤ人はローマ帝国化においても、それ以降のヨーロッパ諸国においても、ユダヤ人に対して否定的な視線が向けられている。そして、その後中世から近世、また一部においては現在でも、差別されてきたのである。下の図に示すように、英国人の怒れる群衆(当時は非常に深刻な失業やとりわけアイルランドにおいてはジャガイモ飢饉などにより食糧難などがあり多くの社会不安要素が存在したため)がユダヤ人を不満のはけ口にするということは多数みられたようである。

宗教的な熱心さも、それに輪をかけたとみてよいであろう。その中でのイエスの人間性の強調、とりわけユダヤ人とのつながりの強調に耐えがたい思いを持った英国人(ありていに言えばアイルランド人)は少なくはないのではないか、と思うのである。尚、この時代の少し前にドイツでポグロムが、後にロシア革命の導火線の一つともなるポグロムが1860年代にロシアで発生している。19世紀の道徳律の厳しいビクトリア朝英国では、このような乱暴な事件がそれもかなり計画的に起きたのである。

ユダヤ人の救済をどう考えるか問題を考える中で、イエスの人間性をどう考えるのか、そし て、ユダヤ人としてのイエスをどう考えるのか、ユダヤ人の救済をどう考えるのかという問題が結構焦点化したはずではあろうと思う。そもそも、上で出てきたジョージ・ ミュラーはユダヤ人伝道のためにロンドンに到着した人物である。このような意味で、ユダヤ人問題は、第1次世界大戦にも、第2次世界大戦ともそのかかわり があると、このブログ記事の筆者は考える。ユダヤ人問題とその圧迫問題は、我々の想像を超えて近代西洋社会の歴史的な変遷の隠れた織糸となっているように思うのである。

19世紀英国において、多くの怒れる英国人がユダヤ人への焼き討ちしている図

次回へと続く

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