Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂の本格化(2)

前回、やや行き過ぎの感のある詩篇6篇の解釈に関するAmy Toumlin上によって記載された手稿が、Harris夫人の手を経て、Harris(ハリス)にの手にわたったことを紹介した。今回は、その後の経緯についてご紹介する。

個人的な手紙の無許可公開と印刷

この問題のある個人的な記録が、ニュートンその要約の正確性を確認することなく、エクスターのダービー支持者の一人、McAdam(マクアダム)にこの内容に関して批判的なハリスの手紙と、この説教の速記録とハリスが批判している手紙の印刷を許可するという手紙付きで送ったのである。実際1847年7月にこのノートは出版されている。そして、ダービーおよび他の事を含め、これらのことが悪魔から来たものだ、と批判しているニュートン批判の文書を印刷して配布している。

この部分を読みながら、しかし、当事者である本人の許可なく、その正統性を確かめることもなく、出版を第3者に許可するとか、今で言えば、著作権から言ってもあり得ないし、論外であると思う。署名入りのものであれば、その責任は書いた本人にあるが、自分ではない他者が個人的に勝手にとった速記録を、速記録記者でもなく、たまたま入手しただけの人間がたまたま手に入れたから、といってそれを出版するのはどうしたものか、と思う。それも批判的な手紙もつけて。

学問的良心の故に起きた混乱

最終的に、ニュートンは1846年11月26日にニュートンは『教理的な間違いに関する了承の表明 (Statement and Acknowledgement respecting certain Doctrinal Errors)』を公表し、誤り(errors)があったことを認め、再検討のためにいくつかの文章を撤回するということを表明した。この誤り、という概念が、後に紹介状が必要になる背景になるのであるが、それは後に紹介する。

この修正において、ニュートンはアダムの罪の結果としてではなく、キリストが罪ある人間として、この地上に来たというアーヴィンの主張への対応しようとした小論での表現においてのみの誤りであると、その主張を展開した。ハリスがニュートンの講解に対する批判したことにかんして、ニュートンが書いた二つの文書をそののちに書いた彼の視点を強調するために、撤回したのであった。Tregellesとニュートンの第2夫人のMaria(この段階で第1夫人は死去している)はニュートンに論難をつける人々がこのことを論難の源泉とすることを怖れたが、ニュートンの公表したものに関する学術的な正確性を期すことに関するこだわりがこのような行動に向かわせたのである。ニュートンが議論したこととは、キリストが人間として受肉されたゆえに、イエスは、死を纏われたことを説明したのであった。ダービーは、このニュートンの非常に正統的な表現を彼の誤りを隠すものだと批判したのであった。なお、このTregellesは新約聖書学者として当時有名であり、English Revised Versionとして知られる改訳聖書の準備委員でもあった人物である。尚、ニュートンとは姻戚でのいとこ関係にあり、ニュートンは、Tregellesの出版において資金的支援をしている。なお、Tregellesは艱難後再臨説主義者であった。

Samuel Prideaux Tregelles

この悲惨な事件におけるニュートンの一種の人民裁判的なプロセスに関して、Coad(1976)は次のように書いている。

 ニュートンは、彼の意図するところに従って書き、それが誤解が解けるものと思っていたのであったのであるが、他の人々は先に結論ありきで、ニュートンの書いたものを読んだのであった。彼らにとって、より防御的な形式での繰言にしか映らないのであった。(Coad(1976), History p.151)

このブログ筆者にとって、こういう「結論先にありき」の議論は、アメリカでは黒人に対するリンチを生み出してきたし、ユダヤ人はポグロムやホロコーストを経験することになった。それ以外にも、衆愚政治など、多くの悲劇を生み出してきたし、中国では紅小兵による多数の悲惨な事件を生んでいるような気がする。同様の悲劇的な事件の一部としては、日本でのキリスト者が、キリスト者であるというゆえに非国民というラベルを当時の多数の日本人から張られたことも忘れてはならないであろう。

Newtonのプリマス離脱とその後のNewton

Newtonは1847年12月8日にプリマスを去る。同12月13日にEbrington Streetの集会の残ったリーダーたちは、ニュートンと共に彼らが共有していた誤りの教えから導かれた影響を受けていたこと、誤りとされたの理解そのものを捨てることを宣言し、集会から離れることを主張した。この後、ニュートンが奉仕したEbrington Streetは非常に多くの人数がいた教会であったのであるが、この事件後急激に人数が減少し、残った集会はBulteelがカルバン派的であるという理由で引き受けることになった。

Tregellesの支援を得て、ニュートンはロンドンのBaywaterにある教会で1872年まで牧会と預言研究を担うことになる。

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