Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂の本格化(3)

前回は、結局、Newtonがいくつかの論文を撤回したことが混乱に輪をかけ、結論ありきで攻める人々は何をしても結局攻めたてるため、結局議論する意味はなかったこと、Newtonの反論が問題に輪をかけいっそう混乱を深め、最終的にNewtonは支援者からの協力を得、そもそもの活動の地、プリマスを離れ、ロンドンの教会で奉仕することになったことを前回紹介した。しかし、それで終わらなかったのである。

ベテスダ集会への飛び火

それが、George Müller(ミュラー)がいたBethesda集会に飛び火するのである。そして、この結果、破壊的な状況を迎えることになった。問題とされたのは、『誤った』考えを持つ説教者とかかわっていることがどの程度とがめられるべきか、という問題である。しかし、この種の問題への対処として、キリストの体の一体性において極端に違った考え(『誤った』)を持つ人々であっても、共に歩むという方法があったかもしれない。

George_MullerHead
ジョージ・ミュラー先輩

Bethesda Chapelの外観

この問題は、1848年4月にニュートンの支援者がその聖書理解がいかなるものであるかを問わずに、ベテスダで聖餐式に与ったことに端を発して、さらに問題が大きくなる。その直後にミュラーはダービーを説教のために招こうとしたが、ダービーはまずは穏健に断ったのであった。しかし、後にニュートンの支援者を受け入れたベテスダには二度と招かれてもいかないと主張したのである。そして、ミュラーとCraik(クレイク)は、このことに関して、キリスト論で混乱が繰り返すことを拒否していった。

バースで開かれた対応のための討論会

バース(Bath)で1848年5月10日指導的なキリスト集会派のニュートンの考えに反対する指導者たちが百名前後集まり、この問題を討議したが、結論には至らなかった。この問題によるキリスト集会が痛んでしまうことを避けるために尽力していたChapmanはダービーがあまりに性急に動きすぎていたと批判したのであった。しかし。このバースでの会議の議論がやや脱線しているように感じ始めていた。

なお、この会議がバースで開かれた要因の一つは、大量の人数を収容できるのが、当時から観光地であったバース等、いくつか限られた地域しかなかったという側面はあるだろう。尚、バースは、ローマ兵の湯治地をその発展の出発点とする街でもある。それと同時に後年、キリスト集会派の宣教師支援団体であるEchoes Serviceが現在もなおその活動の本拠地とする都市である。

Milsom Street, Bath 1794

Milsom Street, Bath 1794

Letter of the Tenの公表

6月にダービーの支持者の一人がベテスダ集会から離脱した。ベテスダ集会は1848年6月29日に総会を開催し、(指導的な人々)10人による手紙(Letter of the Ten)として知られる文書を出し、ニュートンの教義的問題を批判するものの、これ以上の調査は実施しないこと、どちらの側にもつかないことを宣言した。そして、その文書の第6項には、健全でない意見を持っていない限り、ニュートンが牧会した教会にいたとしても、そのことで聖餐式の参加を拒否しないことが明記されている。

教会論(集会論)と聖餐論をめぐる混乱のはじまり

1848年8月26日にベテスダ回覧と呼ばれる文書をダービーは、Leeds(リーズ)から公表した。この内容は、おそらくTrotterから入手した情報によるものと思われるが、Yorkshire(ヨークシャ)集会の多くがベテスダ側の立場をとっているとするものであった。ベテスダ集会は『悪』と深くかかわっているニュートンの支持者としての方法をとっており、魂の敵が最も望んでいる方法をとっているとダービーは批判した。また、ベテスダがニュートンに関する調査を拒否したということは、ベテスダ集会がニュートンと同じ過ちに陥っているとダービーは批判したのであった。さらに、ベテスダ集会からの人物を聖餐式に受け入れることも、ベテスダ集会で聖餐式に参加した個人を受け入れることもダービーは拒否すべきであるとこのベテスダ回覧で主張したのであった。ダービーは後年、目に見えるかたちでの一致がなされるべきだと主張するが、この回覧の文書が出発点になった。

なぜ、ダービーがこのような回覧と呼ばれる文書を出したか、に関してであるが、おそらく、聖書の書簡の大半の書簡記者であるとも当時理解されていたパウロを非常に高く評価し、尊敬していたためではないか、と思われる。つまり、パウロの新約書簡とされるものが、当時多くの古代キリスト者集団(教会)で回覧されていたことが聖書記述に存在するため、それにならって、ダービーの文書も回覧されるべきであると思っていたふしがあるのではないか、と考えている。パウロの一種の文体と論理の揺れをまねるかのようないダービー固有の英語の文体と論理の揺れ、文章の長さをもつ傾向がダービーの書いたものにはあるように思われる。

なお、この目に見える形での一致(つまり視認的同一性)がキリスト集会では大きな問題を産んでいく。特にディスペンセイション説に関して、この説を是認するかどうかが、集会であるかの基準になったり、あるいは、艱難前再臨か艱難後再臨かの一致があるかないかどうかに関する論争や、信徒の服装の共通性、等実に様々な面に渡り、ある集会がキリスト集会と呼ぶにふさわしかどうかの判断基準とされることの出発点になっているように思われる。このことに関し、Bass(2005), Backgrounds to Dispensationalismのp.145では、ダービーはUnity(多様性の中で一つであること)とUniformity(金太郎あめのようにほぼ同一であり、同一の行動パターンをとること)での混乱がみられるとDarbyの神学的な理解に関する問題として、指摘している。

高評価を受けるダービーとその指導性

ダービーの優越性がこの事件で生まれた。この一連の事件の中の登場人物として、ダービーは指導的存在として高い評価を受けくことになる。そして、多くの集会がダービーの主張に従うことになった。とはいえ、ミュラーの孤児院経営の支援の関係で、多くのキリスト集会がベテスダ集会と深い関係にあったため、この問題の説明が緊急に必要であるとの主張をする人々もいたことをTrotterは記録している。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。