Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂の本格化(4)

前回は、NewtonとDarbyの論争がミューラーたちのいたベテスダ集会に飛び火をし、そして、それは全国的な問題として認識され、それに対する会議まで開かれるとともに、ミューラーたちは、Letter of the Tenという文章を公表し、Darbyはそれに対して、Bethesda Circularという文書を出し対抗し、混乱が広がって行ったこと、そしてその中で、Visible Universal Unityという後年のダービーの教会論、そして、現在の我が国でのキリスト集会派の中でも影響力をもつ教会論(集会論)が生まれていったことをご紹介した。なお、パウロが言う一致とは、Uniformityではなく多様なものが一つに寄せ集まる形でのUnityである可能性があるというBass(2005)のDarby神学への批判をご紹介した。

さらなる問題の複雑化

これに輪をかけて問題を複雑にしたのが、WigramによるCraik(ベテスダでのミュラーと共同責任をとっていた人物)への異端疑惑批判であり、1835年にクレイクがPastral Lettersで出版した論文への批判である。同論文の中で、Craikはキリストの人間としての体はほかの人間同様に死すべきものであるとしていた点に批判が向けられ、更に、キリストの聖性は、堕落(腐敗とも読めるtaintという語が使用されている)から守られている、と書いていることから、Craikの理解は、腐敗という語をキリストの霊性に用いる様な異端的理解であることは明らかであるとしていた。なぜならば、この様な理解は、Edward Irvingのキリスト論に見られる混乱(キリストの人間性の強調)の種を内包しかねないものであったからである。ブログ記事筆者の個人的印象からすれば、Wigramの議論は、木を見て森を見ずの議論であり、ほとんど言いがかりとしか思えない。

George Vicesimus Wigram

Henri Craik

このWigramの攻撃に対して、Craikはこの小論を書いた時にWigramがCraikが居住する付近に住んでいたにもかかわらず、その段階では、その問題に関してチェックしたことはなかった点を指摘している。Wigramはこの問題について、次のように反論した。この論争の中で、Craikが霊的に惑わされており、そのことこそ、悪魔が働いていたことを示すものであり、惑わし(deception)を回避するため、後年になっての指摘は、論旨を明確化することを求め、論文として指摘したものであると論文中で主張している。当ブログ記事の筆者からすれば、所謂後出しじゃんけん問題であり、言いがかりとしか思えない。

なお、後に小論の中で、Wigramは、集会を発言者が離れたとしても、誤った教えに関する責任をその集会の構成員たる集会内の個人は持つと書いている。『誤った』教えあるいは、適正(sound)でない教理がその構成員である個人により容認されている集会からの分離が、正当な教理をもつ集団であるキリスト集会としては必要ということになり、その誤りを完全否定しない限り受け入れてはならないという概念へとつながって行ったのである。

ここで、このブログ記者の私見としては、このような教理に関する独特のこだわりは、1840年代以降、英国においても、そして、後年の日本においても、集会の分裂の根拠として多用されてきたように思う。しかし、このような教理へのこだわりが分裂の根拠ともされたが、それと同時に、集会派の拠点が分散して広がることにもつながり、その結果として、分裂後の教会や個人が伝道に向かっていくことになったという印象をもっている。ある面、このような教理的なこだわりとそれに伴う分裂により、キリスト集会派の集会や拠点が広がり、結果としてキリスト集会派による伝道が英国国内及び海外においても進んできたし、また、キリスト集会派の理解が伝道を介して、他のキリスト教界の人々へと広がって行くことにもつながって行った側面があると思われる。

Letters of the Tenをめぐる混乱

Wigramの立論から言えば、Letter of  the Ten(次回その要旨を紹介予定)にあらわされているCraikの誤った考え方をベテスダ集会全体が持っていることになる。DarbyはWigramの考えを支持しなかったが、それを極論であるとして公的に批判もしなかったのである。

1847年まで、ベテスダは、プリマスの分裂した集会の両方側(Newton側も、J.N.Darby側の双方)の人々を受け入れていたが、これらの批判を受けた結果、来訪する個々人を長老がインタビューすることで対応することになった。ところが、ダービーがベテスダ回覧を出し、またニュートンが疑問視された小論を再度公刊する中、ニュートンの理解を公式に否定することを公的に声明する必要に迫られた。

そのような環境の中、ニュートンの問題を複雑化させる原因を作ったそもそもの出発点にかかわる人物でもあるAmy Toumlin嬢(Newtonの詩篇6篇の講解についてのノートを取ったAmy Toumlin)が1848年11月にベテスダで聖餐にあずかるのが目撃されてしまう。

相当の長時間にわたってミュラーとクレイクがインタビューしたが、彼女の聖書理解は穏健なものであったが、Darby側に立つ人々からは、Amy Toumlin嬢がニュートンの論文を支持し、Newtonの聖書理解を擁護しているということで、何人かの人々が集会を離れかもしれない、とはミューラとクレイクからToumlin嬢は通告を受ける。

ベテスダ集会によるNewton支持者の排除

これらの措置をした後、CraikはAmy Toumlin嬢に今後どうすべきかをアドバイスすることを避けた。ただ、事実のみを述べ、将来より明らかになることを希望しているとだけ言えばよいのではないか、と示唆したようである。ミュラーは、ニュートンが小論を取り下げることを望んでいたし、クレイクは、ミュラーのアプローチを変え、教会の中で議論すべきではないかと思っていた。1848年11月27日から12月11日にかけ、ベテスダ集会での総会が7回開かれ、その結果、ニュートンのトラクトを支持したり保持したりするものは受け入れないということを決議した。Lang, G.H.(1949)のAnthony Norris Groves: Saint and Pioneer: A Combined Study of a Man of God and the Original Principles and Practices of the Brethren with Application to Present Condition, London: Paternoster 中に採録されているColeの表現によれば、Darbyはこの対応を承認し、彼らがLetter of the Tenを撤回する条件が満たされ、さらにこれに代わる声明を公表し、公刊することを望んだが、ベテスダ側はそれを拒否した、とされている。

なお、この頃一般に流布していたLetter of the Tenはベテスダ集会の許可なく勝手に印刷されていたのであった。

これまでのNewtonの詩篇6篇の講解の勝手な印刷といい、Letter of the Tenの勝手な印刷といい、著者たちの了承なく海賊版を公刊するということは、当時の習慣であったのかもしれないと思う。

次回、混乱をさらに拡大させる要因の一つとなったLetters of the Tenの要約を紹介したい。

 

 

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。