Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの分裂の本格化(5)

前回は、WigramがCraikの古い論文をキリスト論に置いて議論があると批判し、Letters of the Tenについても混乱が起きたことをご紹介した。

そこで、今回は、混乱に輪をかけることになったLetter of the Tenの概略をご紹介する。なお、()内は、記載内容から当ブログ記事の筆者が考察したり、理解のために補足した内容である。なお、このブログ記事は、Coad(1968)の付録として掲載されているLetter of the Tenから概略を紹介したが、英語に堪能な諸氏は、以下のリンク先で比較的読みやすいスタイルの原文が採録されている。ご参照になられたい。もし、誤りがあれば、当記事のコメント欄でご教示賜りたい。

http://www.bruederbewegung.de/pdf/letteroftheten.pdf

Letter of the Ten

我らの兄弟、George Alexander(ジョージ・アレキサンダー)が彼が集会を去り、聖餐から外れる理由を印刷し、集会間で回覧したが、その理由は、プリマスにおいて教えられていたある種の誤り(certain errors)の判断に関する彼の要求を皆さんの間で奉仕する兄弟が満たさなかった、ということであった。諸氏に簡単に説明することが必要になってきたように私たちは考える。

まず、私たちの兄弟(アレキサンダー)の意図がどのようなものであれ、氏の主張に関する親和性は持っていないし、また、アレキサンダー氏がなぜこのような手紙を出したのかの意図は、この印刷版の手紙を入手してはじめて、知るところとなったのである。
数週間前に、彼は、集会の会衆全体の前に彼の考えを示したが、彼は、回収の前に自らの主張を述べてよいと言われていたし、彼は、彼の思惟を会衆に明らかにする機会があったのだが、それをせず、印刷して回覧することによって行った。その結果、会衆の中に不安を覚える人々も存在するため、この手紙で見解を示すこととする。

イエスの人格の神性に関する真実、イエスの人格の無原罪性およびイエスの犠牲の完全性は我々が保持し集会で語られてきたことである。手紙が回覧されたことで、我々がイエスの無原罪性と犠牲の完全性を明らかにし、事実と違う印象を与えないようにしたいと思っている。
それを明らかにするため、さらに、アダムの過失とイエスは関係があるとするこ、ユダヤ人として生まれたことにより、不完全な律法の呪いのもとにイエスが生まれられたこととを完全にかつ、全否定する。イエスは、三位一体としての神であると教えてきたし、常に父で有る神に慶ばれるものであったことを積極的に我らは認めるものである。イエスは、呪いを受けたものではなく、罪あるもののために受苦されたのである。聖書にある通り、我々にとって、呪われた存在と神によってされた、と理解してきたのである。さらにイエスは悔い改めてない人と同じ経験をされた(不品行にかかわられたことなどを含む律法の順守の点で問題があった)ということを完全に否定するが、外形的には、イスラエル人として、そして、人として御子の裁判は行われ、苦しめられたことについてはそのとおりであると考えている。

しかしながら、アレクサンダー氏の、プリマスのクリスチャンの集会要望(Christian meeting)で教えられていたある種の教えに関して公的に(formaly)調査し、さばき(判断 Judgement)を下すことに応じることに関しては困難であると考えている。

1)この教えが当集会(ベテスダ集会)の生徒の学び(edification)としておきたことでないこと、この集会派ブリストルにあるのである。アレクサンダー氏の主張する混乱に巻き込まれると判断しているが、プリマスで教えられていることであれ、他の地であれ、そのことを調査することの妥当性が当チャペルにはないと感じている。(こコに、相互独立の概念が明示されており、本来、ある集会の構成員を聖餐式に加えないとか加えるとかで判断しないという原則の根拠が述べられている。但し、この羽後独立の重視は、包括団体を持たない以上、ある集団が異端化したとしても、それを防止しえない、という副作用が存在する。日本でも、いくつかのかなり特殊なキリスト教理解を持つ集団が、プレイますブラザレンから生まれた原因でもある。)

2)実際的な理由として、プリマスで出版されたある種の文書を調査しない理由としては、これらの印刷物を持つ人どこかから来られた方にどのように対応するかを知らないことにある。これに対応する方法として、我々は様々な文書を聖書をきちんと読んで学んだ人によってのみ判断すべきであり、他の文書からも判断すべきであり、その一部のみを取り出してある主張を持っていると主張すべきでないと感じている。

3)これらの文書(ニュートン氏が書いた文書)に関して、これまで信仰の健全性において欠点がないと評価されてきたにもかかわらず、それらの文書中に含まれている文言に関して、アレクサンダー氏と当チャペルでは、実際の誤りについて異なった結論になっている。しかしながら、今まで入手した文書は、非常にあいまいな方法で書かれており、この問題に関する公式の判断は避けたいと考えている。

4)これらのトラクトについて別の場所にいる兄弟たち(恐らくプリマスのダービー派の人々)が異なった結論に達しておられるが、当地(ブリストル)のキリスト者が一人や二人の指導的な兄弟(恐らくダービーとハリス)たちの決定だけに満足したり、期待しないことを望むものである。自身の思いを満足させることを望む人々は、彼らが書くことへと導かれると確信するものである(要するに好きに書いたらいいではないか、と突き放している)。その表現方法のゆえに(どうとでもとれる表現になっているがゆえに)、我々にはそれらの印刷物に何が含まれているのかを理解するための暇はないのである。結果としては、言葉による混乱が続くことを危惧する必要はないし、むしろ御言葉の学びに進むべきであろう(馬鹿くさいことをしないで、ちゃんと聖書読めよ、と言っている。このあたりが、神学への忌避感の導入線となったのではないか、と感じている)。

5)健全でない教理をこれらの印刷物が含むと主張する人々がいたとしても、最初に熟読した時には、その内容を理解していなかったのである(今さら言っても無駄じゃないか、と言っている)。これらの誤りを含む教理について判断することを求める人々とは、その教理の性質についての一致に達する可能性はわずかしかない(判断を下しても平行線になるから野暮であるからであろう)。

6)誤りを含んでいるという結論に、この事件で傷ついている人が達したとしても、プリマスから来る個々人に関して私たちの決定に影響を与えない。このトラクトの著者(ニュートン)が異端的であったとしても、その教えのもとにいた人たちを無条件にその来訪を拒否するわけではなく、基礎的な真理を根底から覆すような視点を持っているということがない限り、拒否はしない。とりわけ、昨年1月にプリマスのEbrington Streetでの会議での議論を、問題視されている印刷物が誤っているとされてきた内容をあえて主張しない限りにおいてはであるが(あえて、そのことを言わない限り問題にしない、としている)。

7)ニュートン氏の印刷物の調査と判断をするという要請は、聖餐式における肉についての調査を要請することである。我々がすべきとされた、健全な告白とそれにふさわしい歩みであるかに加えてのことに関しては、我々がどのようなものであるべきかに関しては理解するのが困難であるという公式の結論に達した(要は、そんなことは調べようもないのでしてもしょうがないというのが公式の見解)。

8)主のことばの次の聖句を覚えているのであるが、

【口語訳聖書】箴言
17:14 争いの初めは水がもれるのに似ている、それゆえ、けんかの起らないうちにそれをやめよ。

信徒たちの大半はこのプリマスでの混乱について、幸福にして知らない状態にあることを鑑みるに、どちらかのサイドに付くということを言明する必要がないことで十分であると感じている。そして、時間の経過とともに真実が明らかになるであろうと確信している。また、我々自身を自ら反対者をとがめる存在であると認識されることを望まない。それ以上に重要なこととして、我々はすべての信徒との共同体を形成しようとしていることを目指していること(we would seek to maintain fellowship with all believers)の理解を望んでいるし、我々が主イエスの御名のみのゆえに我々が会してきたよう人々と共に集まっりたい、と考えている。

9)アレクサンダー氏の要望に応えることは、悪しき(evil)先例となることを懸念している。もし、50ページにも及ぶ調査報告書を求める権利があるとすれば、さらにその調査そのものに間違いがあるとより大きなことを要求することにもなるだろう。そうなれば、我々は人の間違い探しに追われることとなり、もっと重要な主の御業の奉仕がおろそかになることを懸念する(要するにエンドレスの議論が生じる可能性があるので野暮であろうと言っている)。

アレクサンダー氏の要請に関して三つの理由を特記すべきかと思っている。まず、第一点目として、アレクサンダー氏が『これらの事柄を判断するのではないが、我々の聖餐式から主の人々の多くが排除されることになる』と指摘する点についてである。仮にある信徒が、誤りを保持しせずそのことを主張していないということが証明できなかったとしても、あるいは、ある意味で聖餐式に参加されるべきでないとされる人が聖餐式に参加していたとしても、我々の交わりからそれらの人々が離れなければならない、と求める聖書的根拠を持っていない。福音への信頼を我々が捨てているといったように我々に対して扱い、あるいは、我々が持つ主要な教理に反しない限り、我々としては、その人に好意的に対応する。そして、そのような信徒の人々を生き方や教理において彼らが悪を容認しているという理由から聖餐式を離れさせるような対応はしない。

第2点目に関してであるが、氏のことばによると”悪の教理を持つプリマスから来た人々を受け入れる”に対して、次のように主張したい。その問題が声高に叫ばれて以来、いくばくかの誤りを含むかとしても、プリマスから来られた方々に対して、その点に関して、十分お話をお聞きてきたと言えるのである。我々の信徒の中に疑われるような状態の中にあるという疑念があったとしても、その方の見方にその問題があるとされているという疑念があればすぐに、その見方に関して十分お聞きしてきたばかりではなく、筋の通ったクリスチャンとしての数年を過ごしておられることが広く知られている方が奉仕するために教会に来られた時には、そのお考えに困難性がないかどうかを誰もが聞ける機会があったのである。そのような機会がありながらも、個人的に誤っているかどうかをお聞きする必要が問題視されなかった時には、その問題があるとされた信徒の方との個人的なお話し合いの機会を通して、そのような誤りを持つという疑念を除くことができたにもかかわらず、個人的な話し合いをお断りになられた方の主要人物がアレクサンダー氏であったのである(今になって言うんじゃなくて、聞けると気があったのに機関解いて、今になって騒ぐとは、どういう料簡であるのか、と問うている)。アレクサンダー氏には、よもやお忘れではないとは思うが。交わりから抜け出す2番目の特別な理由とされた、調査がされていないという部分にかんしては、自己のこれまでを振り返りつつ、再考されたいと思っている。

アレクサンダー氏の第3点目に関して、つまり我々が、不適切な教理を支持しているかどうかの疑念に関する公式の調査の実施に関しては、この書類の冒頭部で述べた理由を参照されたい。

結論としては、我らの主の人間性に関する悪に満ちた取り扱いを怒りに満ちた混乱や推測の問題に関して一応の結論を出したいと思う。1835年に論文を書き、後に出版し、そして当初から牧会にあたってきた人々の一人(Craik)は、神に感謝しながら、”言葉は人となられた”という宣言の意味に関して真実の聖書の中から学んできたことを書いたのであった。クレイクは、彼が書き後に出版したことから発生した諸事に関して、心穏やかならぬ人に喜んでお委ねしたい。ここで、手紙の中であいまいに言及されていることに関して、よりわかりやすい言明があるのなら、それを指摘されたい。もし、そうでないなら、関心のある方々に、これまで通り同じことを話すということを晃にするものである。

署名

HENRY CRAIK      EDMUND FELTHAM
GEORGE MULLER    JOHN WITHY
JACOB HENRY HALE  SAMUEL BUTLER
CHARLES BROWN    JOHN MEREDITH
ELIJAH STANLEY    ROBERT AITCHEISON

上記の文書は、1848年6月29日木曜日及び7月3日月曜日にベテスダチャペルの兄弟たちの集まりで読まれたものである。

——————

誤りを持っているかどうかによる分離が包摂することよりも優先する傾向は、今日のブラザレンにもなお脈々と流れる傾向であるし、誤りを含むものから離れるという傾向は、プロテスタント諸派に共通してみられる傾向であり、その結果多くの教派が生まれ、分裂が生じてきた。実に不幸な歴史手経緯であると思っている。本来、キリストに反対しないものでありながら、敵対する関係をとってきた傾向がみられたのは、ナザレのイエスが発言したとされ、ルカ福音書の中で記載されている次のことばを忘れてきたのかもしれない。

【口語訳聖書】 ルカ福音書
9:50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。

 

ヨーロッパの宗教改革とイスラム国

別にイエスが神であることに反対しないものに対して、自分と違う理解であるからと言って、反対し、血で血を洗う戦争を時にやってきたのが、宗教改革以降のプロテスタント諸派である。現在ISないし、ISILと呼ばれるIslamic Stateと大して変わらないことをしてきたのが、宗教改革以降のプロテスタント派でお互いに裁き合い、否定し合い、時に血を流し合ってきた集団ではないかと思うのである。今は、教育の効果として、論争ということでの上品な対立に収めているが、昔は、本当のど付き合いどころか、血を流すための剣や鎌や鋤を武器代わりにしながら相争っていたことを忘れてはならないのではないか。

先日、イスラム国(ダーシュないしISないしISIL)を国際法とのかかわりをどう考えるか、という関西大学で開催されたシンポジウムに出てきたのだが(その時に思ったことは、そのうち別ブログで公開する。なお、この時の会議録は、関西大学法学部起用で来年度公刊される予定であると聞いている)、そこで、カイロ大学兼UAEのZayed大学の政治学のHamdy A. Hassan教授が英語で話していたことによれば、現在のイスラム国の国際社会における政治的行動は、一種宗教改革後のヨーロッパ諸国の政治的行動の状況との類似性があるのではないか、という指摘が非常に印象的であった。イスラム国は、基本、アメリカやヨーロッパを攻撃するk十で存在意義と西洋社会におけるイスラムの認知を求めて活動したアルカイダの人々とは違い、近隣の同じイスラム諸国により正しいイスラムの世界を目指すように仕向け、イスラム帝国の再興とその領土的拡張というモティベーションで動いているのであって、基本、イスラムとイスラムの戦いの側面が強いという指摘である。無論、西洋社会での認知を求めるために、ヨーロッパのテロも行うが、それよりはむしろイスラムの彼らが言うところの純粋イスラム化としての側面が強いらしい。その意味で、ある教理の拡大を求めて、相争った宗教改革以降のキリスト教徒とよく似ていると言えようかと思う。

当該シンポジウムで重要だと思ったもう一つの視点は、聖典解釈の個人による解釈の発生と個人による解釈における不十分さでの共通という視点である。ヨーロッパで中世、聖典である聖書解釈は聖職者の独占物であった。ミサ(聖餐式)はラテン語で行われていたし、聖書も日常語と違うラテン語訳のものであったし、ラテン語で解釈がされ、そこから導かれることで日常語の世界での牧会が一定の解釈の幅の中で行われてきた。それが良かったかどうかは別として。しかし、宗教改革で世俗語訳聖書が出版され、そして、それが各国言語の形成に大きな役割を与え、世俗語でやや裕福な層が聖典に触れることができるようになってきた。その結果、何が起きたかというと、聖書の独自解釈であり、かなり自由な聖書解釈と一部にみられる聖書の独自解釈であり、その結果いい加減な解釈が生まれ、それが民衆的熱気、場合によって集団ヒステリー状態を生み出していくことになったように思う。それが、現在、インターネットの普及に伴い、インターネットが、グーテンベルグ聖書を生み出した印刷術の役割を担い、かなりいい加減なイスラムの個人的解釈が生まれた結果の産物がちょうど、イスラム国であり、そして同じ信仰者同士で、領土とそれぞれの聖典理解の正統性を争っている、という意味でパラレルではないか、ということであった。不幸な事件におびえ、不必要に恐怖心にかられ、イスラム国に対応するためと言いながら、近視眼的に行動するだけでは、実にそれは浅い考えなのだなあ、ともこのシンポジウムに参加しながら思った。

上記のLetter of the Tenの主張は、誤りを持つかどうかをどうやって知ることができるのかがわからない以上、受け入れるという方針であったが、この事件を機に、「この人は誤りの教理を保持していたり、生活においてもキリスト者としてふさわしくない生き方をしていないこと」であることを証明することが重要になったのである。その結果、紹介状というものが他の集会に行くことに、「信者として適切な人であり、聖餐から退けられるべきでない人物である」ことを証明するために、紹介状の持参、事前送付が必要になったのであり、それを

【口語訳聖書】使徒行伝
18:27 それから、アポロがアカヤに渡りたいと思っていたので、兄弟たちは彼を励まし、先方の弟子たちに、彼をよく迎えるようにと、手紙を書き送った。

等の記載を根拠にして、紹介状制度は聖書的であり、それを尊重すべきであるとするのは、どちらかというと後付けに近いと考えている。当時の慣習として、恐らくアポロかその同行者が手紙を持参したものであると思われる。というのは、手紙は書いた本人、ないし、それから内容について説明を受けた人でなければ読めなかったからである。当時、パピルス氏にしても、羊皮紙にしても紙そのものが貴重品であったため、分かち書きの習慣や大文字小文字の使い分けの習慣はなかったようである。以下に示す聖書の書簡のギリシア語の古代写本をご覧いただきたい。

PhiliP

 

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