Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンとボランティア精神(2)George Müller その1

今回はお約束通り、George Müllerについて数回にわたり紹介してみたい。本日の記載は、Tim GrassのGathering to His Nameのpp.33-36からの要約のかたちで紹介してみたい。

孤児院設置前のGeorge Müller

詳細に関しては、いくつか日本語訳伝記が出ているが、ここでは簡単に触れてみたい。George Müllerは、ルター派の牧師となるために準備している状況の中で、1825年にドイツのHalleハレで信仰をもつが、その後、伝道者として仕えたいという思いに導かれて、LSPCJ(London Society for Promoting Christianity among Jews)での訓練を受けるために1829年にロンドンに到来する。到着直後、体調を崩している時、Teignmouthテインマスで療養するが、そこで、Craikにであう。

Anthony Norris Gloves同様、George Müllerは、福音を語るのに按手礼を必要とする既存教会のありかたに疑問を抱き、1830年にLSPCJとの関係を切る。George Müllerはユダヤ人のみに制約されているのではなく、巡回伝道者としての働きへの使命を感じたのである。そして、人間的なものに従うよりは聖霊に導かれる歩みをしたいと感じていたのである。彼はこのようにして、テインマスのNonconformist(分離派)のChapel小会堂の牧会者に就任する。その直後1830年10月にはGrovesの妹のMaryと結婚する。

George_MullerHead

後年のMüller

 Tim Grassの記述にはないが、Müllerがこの運動に関与するようになった理由が、基本的には伝道するための叙階の有無であったという点は非常に印象深い。その意味で、Müller自身の関心が、伝道にあったということを印象付けるエピソードであり、プリマス・ブラザレン派の伝道熱心さの原型がここに表されているように思われる。

バプティスト教会でバプテスマを受けたMüller

Craikが幼児洗礼を否定するようになり、1831年4月にSynge伯とのあいだで、Shaldon村のバプティスト教会を世話する約束を成立させる。そして、George MüllerはこのShaldon村のバプティスト教会で成人洗礼を受ける(ドイツでは幼児洗礼であった模様である)。

このGrassの記述に従えば、幼児洗礼をブラザレン派の初期リーダーたちは容認していたこと(まぁ、それしかなかったので当り前といえば当たり前であるが)になるように思う。

このShaldon村で、George Müllerは主の晩餐(Lord’s Supper)を毎週開催するようになり、Open Ministry(陪餐の制限をしない形)での礼拝を実施することになる。GrovesのChristian Devotednessという小著に触発される形で、全財産を売り払うことを決断する。

Faith Missionの原型の母型

A.N.Grovesや Müllerが関与したFaith Missionの概念の素地は、英国国教会のカルヴィニストであった、Robert Hawker ロバート・ホーカーによって構築されたと言える。プリマスにおけるBrethren(集会派)の多くの人々は、この教会のホーカーの死後、その教会が不安定になったときに移籍してきたホーカーの教会の元会衆であったが、のちにDarbyが論争を仕掛け、集会を去るNewtonの教会に移籍してきたのである。ただし、この段階では、Newtonはいまだ英国国教会に期待する部分があったのであるが、後に友人のBulteelがIrvingismとBrethrenismを融合しようとているとして、国教会からの放逐事件などいくつかの事件を経て、Newtonは国教会から分離していくことになる。

そして、London司教 Bishop of Londonからの按手礼を、おそらく学位を取得していないことを理由に、受けることを断ったWigramもプリマスに招かれた。そして、Wigramはブラザレン運動と預言とに非常に熱心に取り組んでいたReleigh Streetの教会を1831年に取得する。この段階では、プリマスにおける集会派(ブラザレン派)の教会群は英国国教会からの分離を明白にしてはいなかった。ダービーの記述(Letters of J.N.D. 3.301-2)によれば、以下の様な状況であった。

国教会の司牧も一緒に、少なくとも一回以上は学びのため、月曜日に集まっていた。そこでは、様々な人々が論文や初っ隻を読み、議論し、祈り、讃美歌をうたうことが恒例となっていた。この勉強会のような集まりの後、パンを割いていたのであった。しかし、その数ヶ月後には、日曜日にパン裂きをはじめていったのである。その後、1832年には日曜日に聖餐式をするようになり、他の教会の司牧の出席は止まることになる。

Tim Grassの記述をまとめる中で、このようなDarbyの記述を読んでみると、そもそもが国教会や国教会分離派の司牧たちの中の自主的な勉強会のような集まりから、ブラザレン派が始まっているという点である。また、キリスト集会派の原型が国教会の司祭や分離派教会(非国教会の教会)の牧師であるためか、月曜日の夜の聖餐式にも参加しているということは印象的であった。、

次回、孤児院開設編の予定

 

 

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