Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの初期の量的空間的拡大(1)

Tim Grass(2006)Gathering to His Nameの本の3章をもとに、これから数回にわたり、紹介していきたい。

プリマス・ブラザレンであるということをどう考えるか 他者との区別

1830から1840年代のプリマス・ブラザレン運動の拡大であるが、この背景には、Baptist Union of Great BritainやCongregational Unionなどが中心的な役割を果たしていたのであるが、この時期には、教派間連携というのが拡張期にあった。この時期には、ラディカルな伝道主義(Radical Evangelism)において教会群に流動性があり、プリマス・ブラザレン運動と独立のさまざまな動きがみられた。その意味で、きわめて類似の運動体が存在したため、プリマス・ブラザレン運動と混乱しやすいという問題はあるように思われる。Grassは次のように書いている。

The practice of refusing any distinctive ’denominational’ label makes it all the more difficult for modern researchers to distinguish Brethren assemblies from others which shared many of emphases.

まぁ、日本語変換して見れば、こんな感じかもしれない。

『教派的な』ラベルを張られることを拒否するという行動は、現代の研究者にとって、基本的に非常に似通った特徴を持つほかのグループと(プリマス・)ブラザレンの集会との区別をつけるうえで、様々なことを困難にするのである。

まぁ、信仰者としての見解として、「自分たちは、教派ではないから、プリマス・ブラザレン派と呼ぶべきではない」というご発言とその意図も分からなくはない。そもそも、超教派的存在である面が強く、今後明らかにするように様々な人々が流入したり、またもとの教派に戻ったり、最初の段階では少なくともしておられる。

また、もともと超教派的な存在に、さらに超教派という名前というかラベルを張れば本当に、何が何だか分からなくなるからではある。超教派ブラザレンと一時期はご自称されておられ、神戸でご活躍の方々もおられる。この神戸のグループは、英国で生まれた運動と全く独立に生まれたものと考えるのが適切であろう。

丁度、このような動きは、ある面、Watchman Neeと類似の動きであるといってよい。Watchman Neeは、プリマス・ブラザレン関係の英書を中国で読み、それによって中国で独立的に始まり、独自の神学を形成したといってよいだろう。

 

日本のキリスト集会をどう考えるか?

これに比し、日本のキリスト集会派は、ブリテン諸島群(いわゆる大英帝国)の宣教師の人々がアジアを目指して到来したグループでも、カナダ、北米経由でいったん北米大陸を経由した形で北米大陸を経由してこられた宣教師であれ、その聖書理解形成の出発点をこれまで紹介してきたような、英国に求めることができるかもしれない。しかし、今では、英国からの宣教師や米国からの宣教師もかなり少数になっており、日本の多くのキリスト集会が分離してから時間がたつなかで、日本ならではの独自性もかなり出てきているような気もするので、この際、日本で議論するには『キリスト集会』と名乗るキリスト者集団、「キリスト集会」とか「キリスト集会派」あるいは、「伝道出版社系集会」とすることも可能かもしれないと思っている。あるいは、そのように呼ぶ方が適切なのかもしれない。ある面、書籍研究を通して理解する限りは、かなり分離可能なところまで来ているような気もしないでもない。あるいは、英国型、米国型との不必要な混乱を避ける意味でも日本的プリマス・ブラザレンと分けて議論した方がいいかもしれない。

なお、この種のキリスト教の集団の動きを研究をする上では、一応の分類学上の基準はいる訳で、これを外してしまうと、確かに無いと困るのである。例えば、極端な例であるが、Watchman Neeの後継者であるWitness Leeとその関係教会(集会)群とキリスト集会群の区別は無くなってしまうからである。

イングランドでのブラザレン運動

なお、プリマス・ブラザレンと区別した方がよいという事例として、Grass(2006)では、英国での類似の動きの一つとして、元Primitive Methodists から分離したJohn Bowes の例が挙げてある。基本的にBowesの主張する礼拝形態はBrethren Assembly(キリスト集会)の礼拝形態とよく似ているのだが、社会的政治的な問題に関しては他の教派と容易に連携したようである。

Grass(2006)では、これ以外にも、集会の広がりには、非常に影響力のある人々がもともとの教会から分離して参加した人々(たとえば、Rev Sir Lancelot C.L. Brenton 70人ギリシア語訳聖書及び聖書外典の英訳者)とその人々が書いた書籍などの影響や、Hall at Hereford, W.G.Rhind at Ross on-Wye, W.H.Dorman at Stafforなど、Church Plannters と呼ばれる開拓伝道者の人々の働きがあることを指摘している。さらに、それに加えて、多くのブラザレンの当該時期のメンバーが、他の宗教から、あるいは信仰を持たない状態からの改宗者であるよりは、既存教会からの分離者であるという側面が指摘されていた。

BooksbyRev Sir Lancelot C.L. Brenton
Brenton氏の著書 70人訳聖書(旧約聖書ギリシア語訳)の翻訳

以下同書の記載をもとに地域別にまとめてみる。

Hereford

Herefordでは、英国国教会のRector(教区司祭)であり、聖霊の働きに関する祈りを求めるよう指導する傾向の強かったHenry Gippsの娘婿がJ.N.Darby(ダービー)の解釈者、あるいは印刷物の編纂者であったKellyであったこともあり、Gippsの後継者John Vennの牧会姿勢との対立から、Henry Gippsの元いた教会が分離することで集会が生まれていった。なお、このVennはキリスト集会に対して、非常に批判的なことを書いている。また、Herefordでは、経済的に余裕があり、また、社会的影響力のある信徒が複数いた。

London

LondonではWigramが主要な役割を果たしつつ働きが始まる。また、ここには、地元の有力な醸造業者Glenny家の人によってはじめられた集会もあった。Tottenhamの集会の設立者は、元Quakerの気象学者の息子であるJohn Eliot Howardによってはじめられている。なお、この集会は、ブラザレンの伝道に大きな役割を果たし、Grovesはここの関係者であったし、後にHudson Taylorはここのメンバーになっている。

このJohn Eliot Howardは、キニーネの研究書、へブル書注解を含むキリスト教書、歴史書などの著作があり、後にRoyal SocietyのFellowともなった人物である。
John_Eliot_Howard

John Eliot Howard

またロンドンは、後のExclusive Brethrenが採用することになる、関係性重視システム(Semi Connexial System)の原型を構成することになる。毎週末定期的に持たれた祈り会で相談されたことが、集会としての一体性と判断や行動パターンを生み出すことになっていく。そして、それが、独立型キリスト集会Open(Independent)と閉鎖型キリスト集会Exclusive(Connexial)にも広がっていき、後の閉鎖型キリスト集会群におけるLondonBridgeMeetingが果たした役割と同じような役割を果たした。

 

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投稿日: 2016年1月21日 投稿者: カテゴリー: 御挨拶

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