Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

プリマス・ブラザレンの量的空間的拡大(2)

今回もTim Grass(2006)Gathering to His Nameの本の3章をもとに、引き続きイングランド地方でのプリマス・ブラザレンの初期の量的空間的拡大に関して紹介していきたい。

East Anglia

この地域では、NorforkのGeorge Jeckellという人物が1839年に国教会から分離したことから始まる。また、国教会以外のさまざまな教派的伝統を持つ人々、とりわけ貧しい階層に属す人々が、キリスト者として素朴に納屋なような場所で集まるという形で集まっていた人々がいたようである。また、その納屋のような場所に何人かの当時のある程度名の知られた説教者が呼ばれ、説教を聞く会が持たれている。また、バプティストの牧師Cornelius Elvenは、彼の会衆のうち、この集会に出席するために彼が牧会していた教会から離籍した人々に対して、注意を喚起する文章を残している。なお、この地方には1841年にはプリマス・ブラザレン派の人々が利用する教会堂があったようである。ほかにも、この地域には、1830年代にはすでに多くの集会の原型のようなものが存在したようである。

OldNorfolkMap

The Midland

Staffordの集会は1839年に形成されているが、Midland地方で集会を設立した代表的な人物のうち、3人は既存教会からの分離派であった。一人はPresbyterian(改革長老派)系の牧師であり、もう一人は独立系の牧師であり、また、もう一名は、国教会の牧師Rev. J. Markhamであった。

Birminghamは19世紀において分離が起きた中心地的存在であるが、ここでは、Quakersの人々がプリマス・ブラザレンに関与していくことになる。このうち、銀行家であったSamuel Lloydなどが代表的人物である。Quakersの人々が流入している背景には、Quakersにおける姻戚関係という強い人間関係のネットワークがあるといえよう。また、Birminghamは分離派の拠点であったこともあり、個々の集会はその人たちを呼び寄せる灯台のような働きをした、といえよう。

EasternBirmingham-1732

Northern England

イングランド北東部では、1835-1836年の間にBeacon Controversyと呼ばれる混乱で知られている内なる光と聖書の権威性に関する問題でのQuakersの人々の分裂がプリマス・ブラザレンが生まれる契機の一つとなっている。数百人単位の伝道熱心なQuakersの人々が元いた教会から分離し、最大3000人の人々が分離したとされる。あるものは自分で集まりをはじめたが、Quakersから分離した人々のかなりの部分が、集会に参加した。この背景には、集会とQuakersのグループとの間はいくつもの共通点があり、似通っていたことがあったであろう。なお、NewtonはQuakersの神秘主義的な部分にはアレルギーはあったものの深い親交は続けている。先にも述べたように、Quakersの人々は、教会内部での婚姻、姻戚関係が密であった。これがある面、プリマス・ブラザレンが急速に広がる環境を生み出したといえよう。

QuakerBritain17C
17世紀のQuakersの人々の教会
QuakerOats
アメリカでQuakerといえば、このおじさん
(オートミールといえば、このおじさんのイメージ)

また、この地域では、メソジスト派の社会的評価の低さから分離した人たちも集会に加わり、北西部では、William Trotter(1818-65)がリーダーであったMethodist New Connexionの人々やメソジスト派から幼児洗礼の拒否から追放されたJoseph Barker(1806-75 )が加入しており、TrotterもBarkerもその聖書理解の立場として、Quakersの持つ特質である聖書の字句通り解釈、平和主義、牧師給の否定の視点において親和的であった。この二人はプリマス・ブラザレンの特質を評価していたものの、プリマス・ブレズレンの関係者が他の教派に関してあまりに攻撃的であることには批判的であった。
Liverpoolでいくつかの集まりが生まれ、1842年までには、Hereford, Lancaster, Sheffieldにはそこで活動が行われている。

1840年のAckworthでの活動を嚆矢として、Yorkshireでもいくつかのグループが生まれている。また、Andrew Jukesという国教会の司祭は、大英帝国国教会群が共通して使用している祈祷書の利用に違和感を持ち、イングランド国教会から分離し、単立教会を運営していた。このJukeの関係者のグループが集会に加わっている。彼が書いた予型論(ひな形論)に関する書籍 The Law of the Offerings及びThe types of Genesisは後にキリスト集会の中では、相当数印刷が出回り、用いられている。なお、Jukesは一時はプリマス・ブラザレンに関与したものの、その後(典礼を極めて重視する)高教会主義と神秘主義傾向を持つようになり、最終的には、アングリカン・コミュニオンの司祭に復帰する。

感想

以前にも、ブラザレンの神学的特徴の補足困難性の記事で触れたが、プリマス・ブラザレンの人々のお話、聖書講解や、伝道集会などで語られる内容は、実に多様で、一人の人物が1回の日曜日の教会でお話しされる内容だけをとっても、ある部分は、メソジスト的であり、ある部分は、クエーカー的で、ある部分は、高教会的、また、ある部分はバプティスト的である場合などがあり、一貫性が存在しないように見えることがある。これは、プリマス・ブレズレン派は特定の信条や個別教会で自分たちの信条ないし信仰告白を持たず、特定の信条に縛られることでの教会としての聖書理解や運用の柔軟性を失いたくなかったという側面が影響しているのではないか、と思われる。特定の信条を持たないため、自由な部分がある半面、何を信仰しているのかという基本的な理解がはっきりしないという側面にもつながりかねない。さらに言えば、個人が集まった個別の集会全体の場合、あるいは、プリマス・ブラザレン派(キリスト集会派)全体となると、さらに説教や集会としての行動パターンやその独自性の背後にある聖書理解の多様性は一層増すことになる。

この多様性の背景には、ここで触れたようなイングランドでのプリマス・ブラザレンの成立初期段階での多様な教派から流入した人々の持っていた、教会的伝統が反映され、それが、プリマス・ブレズレン派の中で頻繁に開催されたConference(大会)などでの交流を通って、あるいは、ロンドンなどで定期的に開催されていた相談会などの機会を通じて、あるいは印刷物を通じて、それぞれの教派的伝道に沿った行動が持ちよられ、そのうち適切なものと当時の人が思ったものが選択され、それ以外のものは次第に忘れられていった、あるいは、違う考えの人々は、また別の教派的伝統を持つ集団に移動したといったことにより、時間経過を経る中で、逐次的に、さらに重層的に形成されたのではないか、と思う。

その意味でも、日本でキリスト集会にも、プリマス・ブラザレン派の影響を受けた宣教師たちを通して、キリスト教が伝えられ、日本に伝統的に存在した社会通念とうい基盤の上にこれが伝えられることで、日本のキリスト集会風にアレンジされながら、変化していったものと思われる。

これらの聖書理解とそれが反映した行動パターンとして、いなまお継続しているもの、既に忘れ去られたもの、あるいは日本で新たに追加された行動様式論などを含みつつ、日本独自のキリスト集会の在り方が形成されているように思う。

なお、もともとキリスト集会であったが、日本でキリスト集会から分かれ、独自に発展していったキリスト教のグループに関しては、マーク・マリンズの『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』で紹介されている。なお、これらの元キリスト集会として始まったグループに関して、プリマス・ブラザレン派の宣教師の影響を受けたものとして同書では紹介されている。

 

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