Thoughts on Plymouth Brethren History and Characteristics

プリマス・ブラザレンの歴史と特徴

初期プリマス・ブラザレン派の神学的特徴(4)教会論3

本日は、Plymouth Brethren派(日本におけるキリスト集会派)における既存のキリスト教やキリスト教会や教界をどう理解してきたのか、について述べてみたい。

 教会の堕落という理解

1834年のThe Christian Witnessでは教会の堕落という理解にプリマス(アイルランド)やそのほかの場所の信徒たちがどのように達していったのか、という小論文が記載されているJ.H.Harrisは1834年のThe Christian Witnessの’Retrospect and present State of Prophetic Inquiry’という記事の中で、背教からの教会のリバイバルが約束されているということに疑問を呈し、Borlaseは同じThe Christian Witnessの記事’Separation from Apostasy not Schism’で背教者の時代はリバイバルが起こっていようといつでもそこに存在するとしている。Wigramも同じ号の記事’On the Cause, Means, Mode, and Characteristics of the Present Apostasy’の中でそれぞれの新しい時代(dispensation)においてすぐさま堕落が始まっていることを指摘している。これらの小論文すべての中で、ダービーのこの種の理解に関する理解の影響が部分的二表れているようである。ダービーの教会の堕落理解は教会の堕落は腐敗のようにじわじわと大きくなっているようなものであり、彼にとっての開放されることとは、国教会からの分離であった。これが極まったのが、ウェスレー主義者の完全を巡る1939年のスイスでの論争(これは有馬氏による日本語訳『ウェスレー「完全」論批判』がある)であり、教会論におけるカルヴィニスト風の立場から見た文化人類学的な見地が示されている。つまり、イスラエルの歴史は、個人の歴史とパラレルで、個人の歴史は教会の歴史を反映していといえる、という立場である。

堕落の主要因は、教会の中での権威としての臨在として聖霊の存在を見失ったことであるとしている。より正確には、初期キリスト教の教会での再臨の喫緊性を見失い、この地上の生活を重視するようになり、教会の天的な性質とその目標を見失ったことにあるとしている。この結果は二つの方向で現れ、第1に、聖霊の依存することを拒否し、司祭位階的な原則を持ち込んだことや聖霊が与え給うた特権に従うよりも、教会の牧会が指定された司祭職に限られること。第2に、コンスタンティヌス帝のもとでのキリスト教会がもった表象的なもの区別が付かなくなることで、堕落してしまっていることである。

個人的感想―――
この辺、コンスタンティヌス型のキリスト教のまずさを示すのは、J.H.ヨーダーと同様であり、この辺の意識は、個人的には、ダービーのように教会がすべからく堕落しているとは筆者は言わないものの教会の聖書理解が時代の経過と共に変容してきたり、障害を含むものである部分は存在すると思っているが、本ブログはそれを指摘するものではないので、ここでは省略する。

個人的感想―――

 ダービーの教会堕落論とその背景

ダービーは、彼の教会理解に関して、2つの小冊子を出版しており、そのタイトルは On the formation of Churches(1840) とSome further Developments of the Principles set forth in the Pamphlet, entitled ‘On the formation of Churches’(1841)である。ダービーの基本的な主張は、原始キリスト教会のような教会を模範として教会を形成すべきでもないし、それができないという主張である。というのは、このような試みをしても堕落が認識できなくなるからであるという理由である。

恐らく、ダービーの教会堕落論は、英国国教会からの離脱前のダービーの個人的な経験が反映しているようであり、その経験からの発言であるとも考えた方がよい部分が強いといえよう。

ダービーは既存の教会は堕落しているものの、存続していることはあちこちの記述で認めているが、それは、聖霊が残っていて、そして教会の一体としての基本的な原則が残っているからであるとしている。キリストのからだとして個人に聖霊があるものの、現存する教会は堕落したものとしている。聖霊の賜物(Gift)があることは、普遍的(universal)でありこじんにあらわれるものの、逆に制度的なものは、使徒継承に基づくものであり、その使徒の時代が終わっているがゆえに、それは現存しないという立場である。

個人的感想―――

この部分にも、ダービーたちが啓蒙主義的、近代主義的な個人を重視する聖書理解と聖霊理解を持っていたことが表れている。また、ダービーがUnity(一体性、一致性、一つであること)の理解はBassが The Background of Dispensationalismで指摘したように、一つであることは同じものであることの強調があることがあるので注意が必要である。また、ダービーに個人的に私淑したWitness Leeの後継者の場合、UnityをOnenessとが混乱しているため、一つの地域にしか唯一の正しい教会は一つでしかありえないという混乱のため、一つの行政体の中には一つしか協会が存在しえないという特殊な理解を持つ人々を生み出している側面もある。

個人的感想―――

他のプリマスブラザレン派の教会理解

すべてのプリマス・ブラザレン派の人々がダービーの理解と同様に、地上の教会はどうしようもないほど堕落したものであるという立場に立ったわけではない。ダービーは、国教会を中心とする教会と呼ばれるものの全体的な傾向や立場(政治と不可分の関係など)に着目して議論をしているが、それに反し、Open Brethrenないし、Independent Brethrenと呼ばれるグループの人々は、地域の集まりに強調点を置いていたこともあり、Independent Brethren(独立型プリマスブラザレン派 もともと、ジョージ・ミュラーやクレイクの影響を強く受けた教会群)の人人が、この世に属する教会は堕落しているものの、聖書的なパターンでの地域における教会を神が繁栄させてくださらない理由がない、としていた。

個人的感想―――

この部分を読みながら、日本のキリスト集会派の一部に、自分たちは使徒時代以来続くキリスト者集団であるという自己 理解があるが、これはOpen Brethrenの系譜をひく概念に基づいているように思われる。このような概念は、Derbyの観点からしたら、すべきでないこと、またできもしないことをしていることになるように思われる。また、Darbyの主張が正しいとすれば、もし初代教会以来の現存する教会が現存するとしても、自分たちがこの世の教会と同じようにならないという保証がないことも無視されているように思う。

このような観点から、実際に米国や英国では、Open Brethren派、ないしIndependent Brethren派の教会では、現在、Churchという語を使ったり、自分たちの外部向けの名称をCommunity Churchとするものもある。

個人的感想―――

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